「――…は、…」

 薄い皮膚に冷たい鉄が噛み付くように喰い込む。短く途切れる吐息の合間に、ぎち、と首元で軋んだ音が立った。
 冷たい床に座らされ、細い首に巻き付き上体を吊り上げるのは錆びた鎖。窒息しない程度に緩く、けれども正常な呼吸を奪う目的で絞められた喉は慢性的な酸欠を訴え、閉じることの出来ない口からは弱々しい息が漏れる。決して窒息には至らないその状態が暫く続いている所為で遊星の意識は既に朦朧としていた。腕さえ自由なら首に絡み付く鎖を外せずとも緩めることは出来るだろうが、両の腕は放置していた古い配線で首よりもきつくがんじがらめに縛られていてそれも叶わず。今の遊星に出来ることと言えば短い呼吸を繰り返し、力の入らない身体で少しでも気道を確保しようと足掻くことだけだ。
 断続的に零れる息は静かな旧地下鉄跡に嫌に響く。それは何時もならば煩いほどに喋る奴がその口を閉じていることもあるだろう。

「…ジャ…ック、っ」

 たった一言言葉を発するだけでも息が詰まる。遊星は今にも吹き飛びそうな思考のまま、自分にこんな状態を強いた男を呼んだ。
 男――遊星を拘束した張本人であるジャックは、霞む視界の中で正面の椅子に座って長い脚を組み、その紫水晶に似た瞳で苦しむ遊星を眺めていた。その視線に晒される遊星の掠れた声に、ずっと黙ったままだった口が漸く開く。

「どうした?」
「…こ、れ、…外、し…っ、」

 途切れ途切れに言えば、眼前でにやりと笑った気配がした。予想通りではあったが愉悦を含んだ声音に眉を顰め、けれども今はこの状況を抜け出すのが先だと遊星はジャックに許しを請う。
 だが。

「だめだ」

 切って捨てるような返答に、やはりか、と諦めにも似た感情が遊星の心に沸き起こった。――この男の性質はよく知っている。この程度で解放するようならば元よりこんなことはしない。
 きっと何時もの勝ち誇った笑顔で此方を見ているのだろう金色と白のシルエットは、枯れそうな電球の光よりも圧倒的な存在感を放っている。酸欠でくらくらする頭にそれは眩し過ぎて、けれども視線だけは逸らすまいと、遊星はその紺青の瞳でジャックを弱々しくも睨み続けた。

「…っ…く、ァ、」

 苦しい。いっそ意識など飛んでしまえばいいのに、恐らくそれは許されない。ああでも意識を飛ばしたら流石に解放してくれるだろうか。確信の無い懇願にも似た思考が靄のかかった頭の中をぐるぐると巡る。口腔内に自然と溢れた唾液が飲み込むことも出来ずに口の端を伝い、そのうちジャックへと向けていた筈の視線も、何処を見ているのかわからなくなって。
 もう駄目かと遊星が諦めかけたその時、かつ、と硬い音がして目の前の影がゆらりと動いた。かつ、かつ。コンクリートが剥き出しの、過去に地下鉄の駅のホームだった床と、ブーツの踵が接触する度に硬質な音が鳴る。それはひとつ響く毎に近付いて来ると遊星の直ぐ傍で止まった。同時に薄暗かった視界が真っ白――否、白と金に染まる。

「苦しそうだな、遊星」
「…ぁ、…ジャ、ク、」

 頭上から降り注いだ声。次いで衣擦れの音と共に視界に入る紫の色。
 名前を呼べば、かは、と喉の奥から息が漏れる。霞む目で見つめた友は悠然と笑みを浮かべていた。

「外して欲しいか?」

 遊星の目の前でゆったりと笑みを浮かべた口が告げる。外す、と解放の意を示した言葉に、遊星は正常な思考を持てないまま緩慢に頷いた。
 こくん、と。浅くではあるが確かに縦に振られた首に、ジャックはそうか、とだけ言って口元を歪める。普段の遊星であればその時点でジャックの為さんとすることを察し身構えていただろう。しかし今の遊星にはその為の判断力も、現状を把握するだけの意識さえも危うかった。
 ジャックはぜえぜえと喘ぐ遊星の頬へと手を伸ばして輪郭をなぞり、零れた唾液を指先で拭う。焦点を失いかけて揺れる青の瞳と交錯した紫眼はすっと眇められ、形のよい唇に笑みを刻んだまま、遊星の懇願へ答えが返った。

「だが未だ足りない」
「ッ、ふ、ぅ…!?」

 するりと喉を撫でた手は遊星を苦しめる鎖には向かわず顎に掛かり、酸素を求めて開いたままの唇にジャックのそれが唐突に重ねられた。
 突然のことに遊星は驚愕し目を見開く。直ぐに侵入してきた舌に拘束された身体がびくんと跳ね、じゃらりと金属の擦れる音が聞こえたが遊星はそれを認識することが出来ない。反射的に顔を背けるが顎を捕まえられていてそれは叶わず、ひゅ、と最後の抵抗のように喉が鳴った。

「ん、ンうぅ…ッ!」

 必死で呼吸を繰り返していた口を塞がれ、息が出来ずに遊星はパニックに陥ってしまう。生存本能に従い無我夢中で藻掻くが、腕を縛られている上にこの体勢では大した抵抗にならないし、ジャックはそれを許さないとばかりに覆い被さり口付けてくる。信じられない。何が足りないんだ。唯でさえ苦しいのに、殺す気か。そう思った思考も既に遠く、もう意識なんて殆ど残っていなかった。
 身体ががくがくと震え出す。見開かれたままの瞳に滲んだ涙が溢れ、つうと頬に透明な線を描く。
 何故。どうして。どうしてジャックはこんなことをするのだろう。遊星にはよくわからなかった。だが彼が――ジャックが時折こうして遊星に苦痛を与えるのは彼なりの情の表現なのだろうと、遊星はこうされるようになって何時しか頭の片隅で思うようになった。決して穏やかとは言えない状況で、けれどもジャックは何処か穏やかな表情をする。
 だから今日もなのだろう、と、そう思ったのを最後に今度こそ遊星の意識が沈もうとした瞬間ジャックの手は遊星を離れ、じゃら、と首の鎖が鳴った。喉を圧迫していたそれが軋みながらも緩み、重い音を立てて傍に落ちる。
 同時に、貪るような口付けからも解放され。

「ッ、は、ァ、う、…ッ!!」

 言葉にならない声を漏らし、反射的に息を吸い込んだ遊星は急に大量の空気を取り込んだ所為で激しく咳き込んだ。げほ、ごほと噎せる遊星の身体はくたりと力を失うが、ジャックに支えられることでコンクリートとの衝突は回避される。
 逞しい腕に抱えられ、一頻り咳き込んだ呼吸は未だ落ち着かない。速い鼓動は全身に血と酸素を供給しているのだろう、漸く脳に十分な酸素が回って来て、今にも暗転しそうだった視界に映る世界も少しずつはっきりとした輪郭を取り戻していく。ただ疲労は直ぐに回復する筈も無く、未だ両手を拘束されたままジャックの腕へぐったりと預けた身体は動かせそうになかった。

「遊星」

 低く名を呼ばれ、荒く吐く息のまま顔を上げた視界で紫の瞳が穏やかに微笑む。
 ああどうして。如何してお前はそんな、しあわせそうに。

「愛しているぞ」

 綺麗に弧を描いた唇はそう言って、再び遊星のそれへと重なる。未だ整いきらない呼吸で口付けを受け入れる遊星は、再び霞み始めた思考でぼんやりと、苦痛を与えられた後に必ず囁かれたその言葉を反芻した。
 ――愛している。そう、愛しているのだ。
 囁かれる言葉に、与えられる狂った愛情に逆らえない程に、相手のことを。

「何も言わなくていい」

 二度目の口付けから解放され、荒らぐ呼吸で言葉を紡ごうとした遊星をジャックは穏やかに制止した。
 色素の薄い唇は変わらず弧を描いたまま。

「オレも、既に溺れているのだからな」



 ――其処にあるのは狂気と、残酷なまでの愛情。
























Cruel love…残酷な愛情
狂える愛って読めるんだ。