その後、ボマーは己の目の前でセキュリティに連行されていった。使命を、と、言い残したその言葉と彼の悲痛な慟哭が、未だに頭の中で響いていた。

 試合と一騒動を終えたD・ホイールを引いて、貸し与えられたガレージに戻す。明かりをつける前の薄暗い中に目を凝らせば、デッキと同じく相棒とも言えるD・ホイールは前輪付近を中心にしてかなりの傷が付いていた。復讐を叫んだボマーを止める為、チャリオットパイルへと突っ込んだ所為だろう。
 随分と無茶をさせてしまったなと、ぼんやりと車体を撫でながら思う。ただでさえ殆どが廃品から拝借した部品の継ぎ接ぎで組み上げられているこいつは、細かくメンテナンスをしてやらなければすぐに機嫌を損ねてしまう。今は応急処置くらいしか出来ないが、後できちんと修理と整備をしてやらなければ。ジャックと闘うには、こいつが必要なのだから。
 そこまで考えてふと、今更のように思い出す。
 …ああそうだ。ジャックとの決着は、まだついていないじゃないか。

「――ッ、」

 ひゅ、と、普通に呼吸をした筈の喉が音を立てた。ぞくりと全身に寒気が走り、地についている筈の足が何も踏んでいない、そんな感覚に陥る。
 あれから、未だ一時間も経っていない。

「…ッ、う、」

 ざぁと血の気が引き、足元が抜けるように錯覚する。ぐらりと身体が揺らいで数歩後退った先の壁に背中がぶつかった。
 息が出来ない。酸素が脳まで回ってこない。心臓が大きく脈打ち、荒くなるばかりの呼吸が闇に響く。頭の奥が軋むように痛みを訴え、喉の奥から迫り上がる吐き気を抑えようと右手で口元を押さえる。ガレージの入り口から差し込む光の境界線が歪み、視界に映るD・ホイールが、輪郭を失っていく。がくがくと膝が脚が震えて今にも倒れそうだと、そう他人事のように判断する思考が、遠い。
 …反して鮮明に蘇るのはあの光景。自分の横を走り抜けたボマー。スピードを上げるD・ホイールがサーキットを離れたその先は、ゴドウィンの居る主催者席。
 指を掛けた部分が痛む程に強く口元を押さえる手が、がたがたと震えていた。荒く乱れた呼吸がその手に掛かり、血の気を失い冷や汗に塗れた指先がグローブの中で滑る。奇怪しい、自分に此れ程の力があっただろうか。
 霞み始めていた視界が遂に暗闇に支配される。既に済んでしまった筈の、見えなくなった視界で頭の中で耳の中で何度も何度も再生される光景に音声に悲鳴を上げる。やめろ、やめろたのむやめろ、やめてくれ。
 彼処には、――あそこには。


「何をしている」


 かつ、と。コンクリートを踏む硬質な音がした。
 沈みかけた意識に突然響いた声にびくりと肩を跳ね上げ息を呑む。意識が現実に戻ると同時に失っていた視界も戻り、サテライトでの生活で身体に染み付いた感覚が、瞳孔が開いたままの瞳で音源を探らせた。
 ぶれる視界の中、光の当たる床に伸びる影。それを視線で辿りながら、のろのろと顔を上げる。

「明かりくらいつけろ。整備をするんじゃないのか」

 影が動き、ぱち、と小さく音がして天井の蛍光灯に光が灯る。急に明るくなった視界の先に見留めたのははためく白のロングコート。光を反射して揺れる金糸。此処に来る前に会った時や開会式で見た衣装とは異なっていたがその姿は相変わらず堂々としていて、けれども身長差の所為で此方を見下ろすかたちになる紫の瞳は、少しばかり不機嫌そうだった。
 ガレージに静かに響く声は、他の誰のものよりも、己の記憶に深く刻み込まれたそれで。

 ――ジャック、が。
 彼処には、ジャックがいた筈で。
 でも彼は今、此処に。

「ッ――、」
「! 遊星!?」

 がくんと膝が折れる。揺れた視界に気付いた時には既に遅く、堪え切れずその場に膝をつくが平衡感覚を失った身体が傾くのを自分の力で支えられない。床に衝突するのを覚悟するが、それを阻止したのは自分のものよりも逞しい腕だった。
 抱き留められて、ふわりとあたたかい体温に包まれる。

「おい!」
「…ジャ、…っ…」
「どうした、気分でも…」

 悪いのか、と、問われる前に首を横に振った。大丈夫と返そうとして、口の中が乾き切っていることに気付く。まだ呼吸は荒く、鼓動も速い。

「遊星?」
「へいき、だ、」
「嘘を吐くな。…顔色が悪い」

 説得力の無い声が口から漏れれば案の定叱られた。しかし続いたのは此方を気遣うような言葉で。それを聞いた所為か、それともまだ頭が混乱しているからなのか続ける言葉も無く――元々無意識の強がりから出た言葉故に続けるも何もないのだが。此方が黙ってしまうと、その様子を見兼ねたように頭上で溜息を吐くのが聞こえ、D・ホイールに乗る時と違いグローブをしていない手が額に触れた。会話も侭ならない気息を整えようと口元に遣っていた手を漸く下ろし目を閉じて呼吸を繰り返している間、ジャックの手が冷や汗ではりついた前髪を掻き揚げ、それから目元や頬、首筋と、宥めるように指先や掌で撫でられる。そうして吐息が落ち着いた頃には知らず強張らせていた身体から力が抜け、混乱していた頭も普段の冷静さを大分取り戻せていた。
 冷静さが戻れば、現実を認識する余裕も生まれて。

「落ち着いたか」
「…、…た…」
「ん?」

 まだ抱き込まれたままの腕の中で、ぎゅう、とジャックのコートを掴む。呟いた言葉が届かなかったのか訊き返すような声がした。
 厚い胸板に耳を押し付ければ、聞こえるのは規則正しい鼓動の音。
 ……生きてる。

「――…無事、だった……」

 確かめるように呟いた声は、情けないくらいに震えていて。
 漸く、漸く確認出来た現実に、疲労と安堵がどっと押し寄せる。生きた心地がしないというのはこういうことを言ったのだろうか。シティよりもずっと治安の悪いサテライトで暮らして来たというのに、状況がわからないというのがあの頃よりも怖い。だからなのか、今居る腕の中はひどく心地好く感じられた。
 ほぅ、と安心して溜息を吐き、ふと何時もならば何かしら嫌味なり何なりを零すジャックが何も言ってこないことに気付く。そういえば如何して此処に来たのだろう。スタジアムの方の混乱は未だ完全に収束してはいないようだし、あれだけのことがあっては主催者側も対応に追われているのではないだろうか。
 平静を取り戻した頭はよく回る。色々と訊きたいことが浮かんできて、それをジャックに訊ねようと腕の中から顔を上げた。

「ジャ…っ、?」

 しかしその瞬間後頭部に置かれた手にぐっと押さえ込まれて、一瞬離れた頬が再び目の前の身体と密着する。突然のことに此方が困惑していると、まるで確認するかのようにぽふぽふと頭を叩かれ、それまでよりも強く抱き締められた。
 こんなジャックは此方に来てから一度も――否、サテライトに居た頃も数える程しか見たことがない。

「ジャック?」
「……――、」

 呼ぶと、彼は耳元に何事かを呟いて。
 落とされた言葉に、ああこいつもオレと同じだったのだと、久し振りに触れ合った身体をぎゅっと抱き締め返した。
























お約束の言い訳:未だ決着がついてない