まるでそれだけが別の生き物のように蠢く舌に、左頬のマーカーを緩慢な動作でなぞられた。レーザーで焼かれ引き攣れた皮膚の違和感には疾うに慣れていても、改めてそれを思い出させるように触れられれば否が応でも意識がそこに集中してしまう。舐められるという行為の、その異様な感覚に遊星は思わず身震いするが、頭上で両腕を纏め上げられた体勢で背中を壁に押し付けられてしまえば、逃れることなど出来る筈もなく。
ぞろりと、肉厚の舌が膚を這う。
「っ…、鬼柳、やめ、」
「あーあぁ…こんなもんつけられちまって、バカだなァ」
嘲る声は高低や音色こそ記憶の中のものと一致するが、込められる感情が全く違った。昔の彼の力強く勇気づけられるような声音が今は嘲弄と侮蔑を含み、鋭利で冷たい刃物のように低く響く。止まることを知らない嘲笑を絶えず零し、時折狂ったような哄笑を上げる鬼柳が何を目的として己を捕らえたのか、遊星には皆目見当がつかなかった。否、己の命を奪うという最終目的があるのは知っている。けれども生かして拘束するに留めた理由がわからない。――嬲り殺しにする、つもりなのだろうか。
そんな遊星の恐怖を感じ取ったのか鬼柳はくつくつと愉しそうに喉を震わせ、頬を撫でた右手を太股の方へ降ろす。剥き出しの、病的なまでに白い腕には禍々しく光る黒紫の痣。その手がするすると衣服の上から身体をなぞり、腹を辿り肋を辿り、心臓まで這い上がって来たところで遊星は本能的な危険を感じひくりと喉を引き攣らせた。
――怖、い。
「う、…っ、」
「そんなに怯えるんじゃねぇよ…何も怖いことなんかしない。ただちょっと、イイことをしようと思ってるだけだ…」
漆黒に嵌った金色の双眸を細めて、鬼柳は掠れた甘い声で囁く。それすらも今は遊星の恐怖を煽るものにしかならず、心臓のある位置を何度もなぞる指先を慄然に見開き揺れる青眼で見つめ、戦慄く唇から言葉にならない音を漏らし呻いた。何をされるのかわからない恐怖、殺されるかも知れない恐怖、与えられるかも知れない痛みへの恐怖、そして――自分の知らない彼への、恐怖。足元からじわじわと這い上がってくるだけだったそれが、鬼柳の指先から急激に広がっていく。
「…此処を引き裂いて、心臓を抉り出して」
「ひ…ッ、」
つつ、と、鬼柳は遊星の胸に線を描くように――綺麗にそこを切り裂くように指先を滑らせた。恐怖に凍りついて動かない遊星の脚が、意思に関係無くびくりと跳ねる。
「お前の目の前でズタズタのグチャグチャにしてやりてぇんだが…、あぁ、そんなに震えるなって、怖いのか?」
「や、っ…ぁ、あ、ッ、」
「そうかぁ…カワイソウだなァ遊星ぇ」
甘く甘く、ねっとりと尾を引くように響く鬼柳の声が遊星の精神を絡め取っていく。にいやりと歪められた唇から吐かれる言葉は宥めているのに、沸き上がるのは自分を飲み込む程の恐怖だ。しかし逃げろ逃げろと本能が警告を発しても、がたがたと震える身体は言う事を聞かない。嫌な汗が全身から噴き出して、口からは悲鳴にもならない呻きと荒い息しか出せず。過ぎた恐怖に、絶叫になり損なった息を必死に吐いては吸うを繰り返すことしか出来なかった。
周囲を取り巻く暗闇が無数の手を伸ばして襲い掛かってくる。腕に脚に首に絡み付いて、死という名の闇へ己を引き摺り込もうとしている。限界まで見開いた瞳は、底無しの狂気を湛えた金色の双眸から逸らせない――逃げられない。
鬼柳が、身体を重ねるようにより一層近付いてくる。空いている方の手に肩を掴まれ、くつくつと喉を震わせる音が、聞こえる。
「なーあ、遊星」
――やっていい? と。
まるで昔の彼のように、甘えるような問い掛けと同時。
胸元に触れていた鬼柳の白い人差し指が、長めの爪が、思い切り突き立てられた。
「ッ――!!!!」
喉を裂くような絶叫。言葉を成さない悲鳴のような声が、遊星の口から迸る。
「何だよォ、そんなに痛ぇのか? まだほんの指一本じゃねえか…」
「ッひ…うぁああぁっ、ああぁあアあ…!!」
叫び身悶える遊星の肩をがっちりと掴んだまま、鬼柳は尚もその指先で遊星を責め立てた。たとえ強い力で突き立てられ抉り裂かんばかりに動かされたって、所詮は鋭利な刃物ではない人の指爪如きの痛みは高が知れている。その筈なのに、本当に引き裂かれるのではないかと思うほどの胸を襲う激痛に遊星は泣き叫んだ。それまで流れることもなかった涙が壊れたように溢れ出し、ぼろぼろと零れるそれで頬を濡らし頭を振る度に四散させながら、嫌だ、痛いと幼子のように泣き喚く。そんな遊星を眺めながら、鬼柳はこの上なく愉快そうに口元を歪め、遊星の耳へ注ぎ込むように声を上げた。遊星を暗闇へ突き落とすような言葉を繰り返し繰り返し、狂った嗤いと共に注ぎ込んでいく。
――既に自分は奈落の底へ落とされていたのだ。
暗闇を裂いて響く哄笑と慟哭を聞きながら、片隅に残った思考で遊星は呟く。それまで堪えていたものが決壊する感覚。記憶の中の希望を粉々に砕かれ、必死に守ってきた最後の砦が、目の前の変わり果てた旧友によって虚しく崩壊する。心を引き裂く指先が冷たく触れたところから、何もかもが崩れおちていく。
襲い来る激痛は、傷つけられる痛みではなかった。
絶望に、涙が止まらない。
京遊でいちばんダメージが大きいのは精神的な部分かな、と