二階にあるリビングルームからの階段を降りる間、ガレージには絶え間ないタイピングの音が響いていた。
壁際の作業台、何本もの配線が繋がるコンピュータを操るのは細い背中。ジャケットは何処へやったのかタンクトップ一枚の姿で、剥き出しの肩は暖房器具の無いガレージでは凍えてしまいそうに見える。鉄製の階段をわざと靴音を立てながら降りても、作業に集中しきっている彼は気付きそうになかった。
――一心不乱、と言えばいいのだろうか。ひたすら構築途中のプログラムへ向かう彼の姿は一糸も乱れることは無い。澄み切った夜空のような青の双眸は途切れることなく打ち込まれる文字を追い、日頃の機械弄りで細かい傷だらけの両手はそれを追い越すほどの速度で打鍵を続ける。
もう何時間――否、何日経っただろうか。
「――遊星」
「…! ブルーノ、」
彼の傍まで来て漸く声をかけ、リビングから持って来たタオルケットを細い両肩にかける。どれだけ画面を凝視していたのだろう、一拍遅れて反応した彼は、思い出したように瞬きをしてみせた。眼球がすっかり乾いていたようで、目を擦ろうと持ち上げられた手を阻むように取る。思いの外小さい彼の手は所々オイルで汚れてしまっていた。自分が仮眠を取っている間に、エンジン本体も弄っていたらしい。
「そんな格好じゃ冷えてしまうよ。上着はどうしたの?」
「……部屋…、いや、二階に……」
「リビングには見当たらなかったよ」
「…そう、か……」
滲んだ涙が染みたのか瞬きを繰り返す遊星の返答は緩慢で、本人も曖昧なことを口走っているようだ。感情が欠落してしまったかのような、痛々しいくらいの無表情。くっきりと隈をつくった目元。ふらふらと視線を彷徨わせる瞳の焦点も合っていない。付き合いの短い自分でも容易にわかるほど、遊星は疲れた顔をしていた。それもその筈、徹夜の日数は数日前勢いのままに続けたそれを疾うに超えている。
――自分と遊星、二人で作り上げた渾身のエンジンプログラムが、ある人物によって盗まれたのが数日前のことだ。何とか取り戻そうとしたが結局それは失ってしまい、奇跡的に作り上げた最高のプログラム――それと同じものをもう一度作ることは困難になってしまった。
一からの作り直しとなったエンジンプログラムの開発はあまり捗々しくない。盗まれたあのプログラム自体が勢いと衝動――それは遊星と早々に意気投合したからだったのか、それとも理由は失った記憶の中にあるのか自分でもよくわからないのだが――遊星と出逢ったあの日からの数日、言い様のない高揚感に満たされた中で作り上げたものだ。大まかな構成を同じにすることは容易いが、緻密なプログラミングの細部までを等しくすることは不可能だった。
最高の、これまでにない奇跡のエンジンプログラム。それを遊星は再度、少しでも早く組み上げようとしている。――焦っているのだ。WRGPまでにやるべきことがたくさんある中で、マシンの性能を大きく左右するエンジンプログラムが、未だ完成しないことに。
「…今日は休もう。徹夜続きで疲れたでしょう?」
「……だが、プログラムが、」
タオルケットを羽織らせた肩を抱いて休息を促す。しかし遊星は従わず、明るいモニターを見て困窮したように表情を歪めた。休んでいる場合ではない、けれどもどうしていいかわからないと、青い双眸が訴えている。
「うまく、いかないんだ、もう少しなのに、」
「わかってる。だけど君が倒れたら元も子もないよ。明日僕も手伝うから……ね?」
「だが……だが、ジャックとクロウが、待って――」
「遊星っ、」
不安のあまり饒舌になる遊星の肩を衝動的に引き寄せた。彼が座っていた椅子からガタンと大きな音が立つ。突然の事態と疲労で立てない遊星を抱き締め、ずるずるとその場に座り込んだ。
寒さかそれとも別の理由か、腕の中に収まる身体は微かに震えている。黒く艶やかな前髪の下、俯くきれいな青い瞳は背負う重圧に揺れ、今にも泣き出してしまいそうで。
遊星だってわかっている筈だ。彼の大切な仲間――ジャックもクロウも、遊星を責めたり無理を強いたりするような人ではない。寧ろその逆で、誰も遊星が無理をすることなど望んでいない。けれども遊星は、まるで責め立てられるかのように身を極限まで削り、プログラムを完成させようとしている。
――遊星を責めているのは他でもない、遊星自身だ。仲間に最も求められていることを遂行出来ない、仲間の力になれない自分を、誰よりも彼自身が責めている。
(……遊星、)
どうしたら彼の助けになれるだろうか。まだ出逢って日も浅い、世話になってばかりの自分に、出来ることはないのだろうか。
――彼の力になりたい。否、ならなければ。
意識の奥の奥で、だれかがそう叫んでいる。
「――大丈夫」
ぎゅっと、遊星を抱く腕に力をこめる。彼が泣いてしまわないように、彼の不安がなくなるように。
「大丈夫、完成するよ。きっと、この間よりもっといいものがつくれる」
「ブル、…ノ、……」
「遊星なら出来るよ。だから焦らないで」
漸く顔を上げた遊星の額にそっと口付ける。どうしてかはわからない、何故だかひどくそうしたかった。
このやさしい彼をたいせつにしたい――とても、とても。
「大丈夫……僕が力になるから」
ブル遊にもだもだしすぎである…